井上聞多は、桃太郎電鉄 ~昭和 平成 令和も定番!~で登場する歴史ヒーローです。湯田温泉@山口県・中国地方を独占することで仲間にすることできます。
井上聞多の詳細情報
出現する駅 | 湯田温泉@山口県・中国地方 |
独占に必要な金額 | 55.2億円で独占可 |
井上聞多の効果 | ・イギリス、薩摩、豪商から借金をする。
・借金総額の1割を返済する |
オススメ度 | ⭐️⭐️ |
長所 | まとまったお金を手にできる。 |
短所 | 返済が負担になることも。 |
井上聞多の歴史的情報
本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)に改名した。諱は惟精(これきよ)。雅号は世外(せがい)。
幕末・維新から明治・大正初年にかけての政治家。財界とくに三井財閥との縁が深い。長州藩士の井上家は田地1町、畑4~5反をもつ100石の地侍であったが、彼は幕末期一時志道(しじ)家の養子となり、のち井上家に復帰。聞多の名は1860年(万延1)、藩主毛利敬親(たかちか)の小姓役のとき藩主からもらったものである。号は世外。明倫館に学び、また蘭学、英学、砲術などを修業し、高杉晋作らと尊攘運動に参加した。63年(文久3)、藩が馬関(下関)で攘夷実行を行うさなか、藩命で伊藤博文ら4名とともにロンドンへ密航したが、翌64年(元治1)、四国連合艦隊の下関攻撃計画を知り、急きょ伊藤と帰国,幕府の長州征伐と連合艦隊攻撃のはざまにあった長州藩のために講和を周旋した。
明治維新後、木戸孝允の推挙で大蔵省に入り、伊藤博文らと行動し、主に財政に尽力した。明治4年(1871年)7月、廃藩置県の秘密会議に出席し、同月、大蔵大輔に昇進。大蔵卿・大久保利通らと岩倉使節団に加わり、外遊中は留守政府の責任者を務めた。明治5年(1872年)、大蔵卿に就任。財政再建に尽力し、明治6年(1873年)には、日清修好条約を締結した。
明治7年(1874年)、大蔵卿を辞任し、実業界に転身。三井物産の設立に尽力し、三井財閥の礎を築いた。明治10年(1877年)、西南戦争に際しては、伊藤博文の命で西郷隆盛との和平交渉に当たった。明治11年(1878年)、伊藤博文内閣の外務卿に就任。日清修好条約の改正交渉にあたり、日英通商航海条約を締結した。
明治14年(1881年)、伊藤博文内閣の退陣に伴い、外務卿を辞任。明治15年(1882年)、元老に任命された。明治22年(1889年)、大日本帝国憲法の公布に際しては、伊藤博文らと憲法草案の起草に当たった。明治23年(1890年)、第1回衆議院議員総選挙に当選し、貴族院議員に就任。明治32年(1899年)、第1次桂太郎内閣の外務大臣に就任。日露戦争の開戦にあたり、日露講和条約の締結に尽力した。
明治40年(1907年)、侯爵に叙せられた。明治45年(1912年)、大正天皇の即位に際しては、御前会議に出席した。大正4年(1915年)、死去。享年79。
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